プロコフィエフのフルートとピアノのためのソナタ

マリーナ・ヴォロジュツォーワ、スヴァトスラフ・リヒテル

1943年にハリコフスキー、リヒテルで初演しています。

第1楽章のみ視聴しました。清冽な笛の音です。

なお、リヒテルは、この曲のヴァイオリン版を「妥協的」として否定しています。

わたしとインターネット

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

活字化されなくても、すみやかに意思表示できる手段ですので、文芸批評には好適なステイルです。さらに、ブックレヴューを書籍商品ごとに入力できる欄を最初からこしらえてある業者さんもありますので、そこに社会の様々な層の読書人の意見が集積されます。

わたしは、文芸批評の批評を10年ほどやって、大いに楽しみました。一番チカラを振るったのは、小林秀雄批評の批評であったと思います。晩年の作品のいくつかに関して、実際には、問題をどうとらえるべきであったのか、という提案も行いました。

書き終わって、そして明日からは、また新しい時が流れ、新しい書籍が目の前に現れます。生きている実感がわいてきますね。

フルトヴェングラー『音と言葉』

新潮文庫です。芳賀檀先生の訳です。このひと、詩人の立原道造氏を最後に見舞った客の一人となりました。

フルトヴェングラーは、音で記録を残しているので、比較的幸せな演奏者となりました。

ハロルド・バウアーとは誰そ

名伴奏者でした。もともとはヴァイオリニストで、のちにピアノに転じます。

この人の編曲によるセザール・フランクの「前奏曲、フーガと変奏曲」を聴きました。演奏は、マリオス・パパドプーロスです。

オルガン曲をピアノ曲に変えました。

なるほど、遠くにマリー=クレール・アランの演奏を仰ぐようにも思います。この人、わたしの記念日に教会で録音をされたので、聴き込んだものですから。

パパドプーロスは、「前奏曲、コラールとフーガ」のときとは異なり、祈りの姿勢のままで一貫します。

 

マレイ・ペライアによるシューベルトの間奏曲集より

セファルディムです。珍しいことです。そして、演奏内容は、華麗に気高い音をつくります。

 

最初に普段着のようなスタイルのジャケットを目にしたことから、一種の違和感をぬぐうことができないのですが、そして、それは、音に直接向かうことにとっては、妨げになるのですが、音自体が選ばれた音色になっています。

 

手の故障で演奏生活を制限しているとのことです。しかし、録音があるので、聴くつもりがある者は、聴くことができます。